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【不妊治療の始まり】私が子供達に出会うまで

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HSP主婦あおこんです。

13年前、初めての妊娠で「死産」を経験しました。

その後男女の双子を授かり、凸凹一家ではあるものの、今は家族みんなで毎日笑って暮らしています。

私の心の中にずっと重たい石を落としていた、人生で一番つらかった経験を掘り起こす作業を始めることにします。

もし読んでいるあなたが同じ経験をされ、心がまだ回復していないと感じたら、ここでそっと引き返してくださいね。

  • 当時の記憶をたどり、少しずつ書き記しています。表現が曖昧なところも多々ありますがご容赦下さい。
目次

不妊治療と周囲の理解

夫とは20代から一緒に過ごしてきたけれど、入籍したのは私が33歳の頃です。

結婚前から、婦人科系の病気を何度も繰り返していた為、始めから「自然妊娠は難しいだろう」そう先生からは言われていました。

夫のほうは特に問題なしという結果。

入籍後、年齢的にもタイミング法などは飛ばし、すぐに「人口受精」を受けることになりました。

数回繰り返してみたけれど、うまくいかなくて更に「体外受精」に進み治療を続けました。

ざっくり書いたけどこの段階で、すでに「約3年」もの年月を費やしています。思い通りにいかず焦る気持ち、自分を追いこみ、時にはあきらめたくなった日もありました。

でもその時の私は、どうしてもどうしても「お母さん」になりたかった。

当時「フルタイムの接客業」をしていて、仕事を続けながらの治療には周囲の理解が絶対的に必要。

同僚や上司の協力を得られた私は、ラッキーだったと思います。たくさん助けてもらって、本当に今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

なので、不妊治療の話しは全員ではないですが、当然ある程度の人数が知っていました。

コソコソするのもちょっと違うし、しっかり話を聞いてもらうことで仕事の調整もスムーズに進んでいけたと思います。

結果が出ない時には、もちろん落ち込むこともあったけど、今考えると「接客業」だったのも良かったかもしれません。

お客様と接する仕事は、必然的に笑顔でいる時間が増え、忙しくしていることで自然と切り換えができていたように思えます。

家と病院の往復だけの毎日だったら?気持ちに寄りそい話を聞いてくれる同僚が1人もいなかったら?

果たして過酷な治療に耐えられていたのか…私にはちょっと自信がありません。

続きはこちらから①

続きはこちらから②

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